まさか「音楽を演る人」と「音楽を聴く人」の間に、
第三の人間がしかもこんなにうじゃうじゃ蠢いているなんて想像もできなかった。
それが音楽業界という魔界だ。


忌野清志郎は著書「ロックで独立する方法」で
このように語っている

僕はこのたび
ドローレ・レコードなる自主レーベルを立ち上げて
CDを制作し流通に乗せてめでたく自分の作品を全国発売したのだけれど

これはずいぶん前から思い描いていた
「ロックで独立する方法」を何とか自分なりのやり方で実現したものだ

作品を通じて全国いろんなとこに行ったり
いろんな人に出会えたらいいな

そうやって音楽を通じて人と繋がって生きていけたら
僕たちは正解だし成功だ


週末は
吉祥寺の曼荼羅という老舗ライブハウスで
忌野清志郎リスペクトナイトというイベントに出演させてもらった

僕らのグループでもサックスを吹いてくれている
サットくん率いるSTEPPEN STONEの企画だ

そこでどのバンドも最低1曲
RCサクセションもしくは忌野清志郎の曲を演奏することになっていて

僕らのバンドは
僕が「自由」を、ギターのイトーちゃんが「トランジスタラジオ」を
それぞれ歌うことになっていた

全バンド事前に曲の打ち合わせなどなかったのだけれど
全てのバンドが必ず1曲目にRCの曲を演奏するという偶然に
僕は少し感動していた

なんという忌野清志郎への愛とリスペクトだろう

ハナシがずいぶん飛んでしまうんだけど
10年前に渋谷生音弾で「夕暮れロッカー」をリリースした時に
そん時の出版社の社長から出すだけ出してホッタラカシにされたことがあって

「せめて10万、いや5万、いやいや3万でいいから宣伝費出してくれないか」
って社長に詰め寄ったことがあったんだけど全然ダメで

流通も作品もなんだか中途半端な感じになっちゃって
「思ったほど売れなくてこっちもうまいこと乗せられた」
なんて逆にその社長に被害者ヅラされたことが
もう悔しくてアタマに来て情けない経験をしたことがある

今となってはそれはとても貴重な経験で

自分が作りたい音楽を聴かせたい人に聴かせたい分だけ届けるために
もうとにかく今回はなるべく自分の出来ることは自分でやろうと
いろいろ画策してやっとリリースにこぎつけることが出来たこのタイミングで

(もちろんこの度のリリースに関しては関係各位本当にたくさんの方のお世話になりました!)

今回演るなら「自由」しかないな!なんて思った(笑)
最初メンバーの反応はイマイチだったけど(苦笑)

実際演奏すると
とにかく清志郎独特のグルーヴを再現できない

最初のリハで録音した音を何度も聴きかえして
オリジナルを何度も聴きかえして何が違うのか探るんだけど
それでもヒントすら掴めない

「どうすりゃいいんだ、これ!」

ちょっと途方に暮れちゃいました
とにかく自分の歌唱力が追いつかない

でもね、最後の最後でちょっとだけ見えた風景がある
すごく勉強になったし練習になりました


「自由」は1984年頃の作品で

RCが所属事務所「りぼん」から独立して
「うむ」を設立した頃のことを歌ったんだと思います

1984年の僕はと言えば
誕生日のプレゼントにエポック社の野球盤を親にせがむような
小学校低学年の子供ですよ

その頃のことは当時のマネージャー片岡たまきさんの著書
「あの頃、忌野清志郎と」にサラっと書かれている

短いこの人生で一番大事なもの
それは俺の自由、自由、自由

この歌詞にある通り
忌野清志郎は短い生涯を駆け抜けてしまう

わがままで言いたい放題
自分勝手な歌と思われるかも知れないけれど
本当はそうじゃない

誰よりも相手に気を遣う
忌野清志郎という人の優しさと繊細な部分を僕は感じてしまう

そして相当な覚悟を必要とする歌

「俺は法律を破るぜ」っていう詞で
組織のやり方に真っ向から立ち向かおうする

「責任逃れをするぜ」だなんて

こういうカッコ悪いことを平気で歌えちゃうのは
忌野清志郎かジョン・レノンだけだと思う

だけどそうすることで
相手の逃げ道を作ってあげる優しさなのかなとも思う

「俺の贅沢は治らねえ」とやっぱりどこか自分を悪者にしている

そして
こんな風に何度も叫ぶ

すべての奴らに自由を

自由を手に入れることはきっと簡単なことだと思う
覚悟があるならね

清志郎が伝えたかったことは
そういうことなんじゃないかなって思いながら

この歌を歌わせてもらいました

清志郎








去年までの清志郎追悼ライブでは
ラプソディをよく歌ってました

その理由はまた今度